恥ずかしながら、「離見の見」という言葉をつい最近はじめて知りまして、なんだ、こりゃ、とググったところ、これってまんまエンプティ・チェアぢゃん!と思ったのであります。
「離見の見」とは世阿弥の言葉で、花伝書の「花鏡」にあります。
また舞に、目前心後といふことあり。
「目を前に見て、心を後ろに置け」となり。
見所より見る所の風姿は、我が離見なり。
しかればわが眼の見るところは、我見なり。
離見の見にはあらず。
離見の見にて見るところは、すなはち見所同心の見なり。
その時は、我が姿を見得するなり。
後ろ姿を覚えねば、姿の俗なるところをわきまえず。
さるほどに離見の見にて見所同見となりて、
不及目(ふぎょうもく)の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし。
これすなわち、「心を後ろに置く」にてあらずや。
要は自分の姿を離れたところから見てみたら、全然違ったものが見えてくる、ということですが、単に視点だけではなく、体が置かれた場所、アンカリングの作用もあるのでは、と思わされましたよ。
NLPのマスタープラクティショナーコースでエンプティチェアの技法を学びましたが、あまりに効果絶大なので一時はこればっかやってまして、お前は占い師じゃなくてNLP屋だ、と怒られたことも。
しかし物の見方を変えることでこうも人は楽になれるのか、と驚愕でありました。
サブモダリティを変えるってのも、つまりはそういうことなのね。
これを読んだら、エンプティチェアで解決できない問題はないのでは、とも思わされました。座布団は使ったことないので、是非ともやってみたいです。
まわりを変えずに自分を変える、自分の考えを変えることにものすごい抵抗を持つ人がいるけど、自分が変わってなくなっちゃうんじゃなくて、新たな視点をもつこと=選択肢が増えること、そのことによっていかに自分で自分をがんじがらめにしているか、がわかりますよね。
変わることへの怖れがあるのは、自分が不自由でいたことを認めるのがイヤだからだろうな、と思ったり。
不自由な過去にいつまでもこだわっていないで、自由を手に入れましょうよ。