これ⬇︎の続き
選んで生まれてきた、という考えを受け入れることで、何ができるようになるか。
許せるようになります。
つまり、私も含め「選んで生まれてきた」論を受け入れることができない人は、許すことができないわけです。
許せない、ということには、怒ると同様ネガティブなイメージしかないようですが、怒るということの本来の意味は、自分が大切なものを自分が望んでいるように大切に扱われなかったことへの抗議だと私は思っています。
抗議しないとどうなるか。
相手はつけあがります。まだ大丈夫なのか、と攻撃をさらに強めます。平気なフリをしていると、攻撃はどんどん激しくなります。
攻撃しないでよ!と怒ってください、抗議してください。
が。
あなたが抗議できないとするなら、それが恐怖やあきらめ所以でないとするなら、その他の理由はひとつしかありません。
攻撃してしまう相手の気持ちに寄り添うこと。
攻撃したいよね
攻撃しちゃうよね
自分を守るために攻撃しちゃうんだね
相手の痛みを感じるよりも、自分の痛みを我慢するほうが楽なのでしょう。
そこまでいけたらいいですねー。
みなさんご存知のように(知らんか)、コネクトロンの旧ブログは「許せと言われて許せますか?」というタイトルでした。
なぜこんなタイトルにしたのか、「許せ」と言われて許せないことに自分を責めている方の多いこと、そう、自分を責めること=罪悪感から解放されることが何より必要と思ったからなのです。
自分を悪者にしないためには、他者を悪者にするのが手っ取り早いです。
それは相手を責めることではなくて、あくまでも問題の原因は自分ではないということを腑に落としていただくためです。
ご自身を責めることを止めていただくためです。
許せないのは、自分をこんな目にあわせた誰かではなくて、その相手を許せない自分なのです。
許さなくていいよ、だってあなたはそんなひどい目にあったのだもの。
許せない自分を責めなくていいよ。
あなたの傷が癒えたなら、穴ぼこが埋まったなら、許すも許さなくも関係なくなるから。
だから今はただ、許せなくて辛いよね、許せない自分を許せないよね、とヨシヨシしてあげてください。
さて、ちょうどいいテキストに遭遇。
イラストレーターの田村セツコの項、車に轢かれたとき、近所の方が「きっと亡くなったお母様が守ってくださったのね」と言ってくれたことに対し、母が守ってくれたから怪我せずに済んだのだわ、と思えたら嬉しくなった、と。
もいっこ。
原画の入ったバッグをバスの中に忘れてしまったけど、それがどうにも手元に戻ってこなかった。返したくないほどいい絵だったんだな、と思うようにした、と。
インタビュアーが「怒りとかやるせなさはないのですか?」と尋ねたら田村セツコは「怒りを持続する頑張りがきかないのだ」と答えました。
そして
トラブルには必ず、学べてよかったと思えるヒントと、悪かったことの両面があります。怒りを手離すヒント、嫌なことを考え続けるのをあきらめるヒント、人生に必要なことをトラブルから学べる。たとえばね、ひどいことをする人を許す快感というものもあるのよ。それを味わえたら、ああ良かったわ、嬉しいって思うの」。
インタビュアーは田村セツコのことを筋金入りのスーパーポジティブシンキングの達人と称しています。
田村セツコがこうなれるまでにどれだけのことがあったのか。
これは田村セツコが自身の人生で獲得したこと。決して間違ってはいない。ただ同じものを人に求めても、成し得るはずもなく。だって田村セツコの人生とあなたや私の人生は違うのだから。
目指すべきものとしてのヒントにはなるでしょうけれどね。
人から言われるものではなくて、自分で納得、たどり着くもの。
穴ぼこが埋まったとき。ヨシヨシを重ねて傷に触れられても反応せずに済むようになったとき。
それまでは、痛いよね、腹たつよね、(相手を)許せないよね、(許せない自分を)許せないよね、と寄り添い続けるしかないではないですか。
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