最終回その2)それを選んで生まれてきた〜顔ニモマケズ

これ⬇︎の続き

https://connectron.jp/20171222-1513918476/

「夢をかなえるゾウ」って一世を風靡したじゃないですか。

夢をかなえるゾウ

夢をかなえるゾウ

 

読んだ?読んだ??

著者の水野敬也には当時「チャラそう」というイメージしか持てず(失礼)本を手に取るには至りませんでした。

イメージがちょっと変わったのは鉄拳とのコラボで。

鉄拳てすごいな!(男前だしな!!)で終わって、水野敬也にまではたどりつきませんでした。自己啓発好きな意識高い系に需要のある人、という印象しか持てず縁のない存在だったのですが。

が。

この本が目につきましてね。

顔ニモマケズ ―どんな「見た目」でも幸せになれることを証明した9人の物語

顔ニモマケズ ―どんな「見た目」でも幸せになれることを証明した9人の物語

 

意外だったのですよー。「モテ」という強者を語る人が、と。

余談)metoo問題で炎上した某電通出身女史に対して「強者」という印象をぬぐいきれないのは、彼女が「モテ」コンセプトを武器にしていたからです。武器を使う、ってことは鎧がある、ってことですけどね。

余談追加)強者とはゼロから上に積み上げていける人。マイナスをゼロまで持っていく、という寄り添い方ができない人、とたった今定義いたしました。

読んで、モヤりました。生まれ持った障害のある方、それこそ「選んで生まれてきた」問題につながる内容です。書くか、書かないか、と悩んでいたら、今日の朝刊がこれで。
f:id:connectronkobe:20171230075042j:image
https://www.asahi.com/articles/ASKDY5418KDYPTIL004.html?
「顔ニモマケズ」を読んだのが昨日ですよ、ほんで今朝がこれですよ。

ああ、これはちゃんと書け、って言われてるんだな、と思ったです。

トラウマサバイバーというのはサバイブした人、つまりサバイブできなかった人の声は表にはあがってきません。「顔ニモマケズ」に登場している9名の方々は、まさにサバイブできた人なわけです。

サバイブできた人の言葉はトンネルの中にいる人にとっては出口の明かりとなることでしょう。

では、トンネルに入る必要がなかった人には?

これが、モヤったとこなんですよ。

トンネルに入る必要のなかった人は、トンネルに居る人、トンネルから脱却した人がトンネル内に居た時の気持ちはわからんわな、と。

そこに「強者」目線を感じてしまった私を許してください。

生まれ変わったときも顔の痣はあったほうがいいですか、無いほうがいいですか、という質問への答えは。

ネタバレですが。

いろんなものを乗り越えて、家族だとか仕事だとか得られたものがある、それらがすべてまた手に入るということが前提であるなら、痣はないほうがいい、と。

つまりですね。

得るために痣が必要であった、痣があった「おかげ」で得ることができた、とは思いたくないのです。

乗り越えたからこそ得られたものがあるのは確か。でも、乗り越えるものがなかったらそれは得られなかったのか。

起きた出来事の意味、それは酷なものであればあるほど自分に何か有用なものをもたらすためであったのだ、という「いい聞かせ」の役割を果たします。

言い聞かせなければ、やり過ごせ無いのです。

やり過ごすための言い聞かせ、その最たるものが「それを選んで生まれてきた」ではないでしょうか。

痣は無いにこしたことないのです。しかし、なんの因果か痣を持って生まれてしまった。

痣をもっていることのメリットとデメリット、前者は後者にくらべてとても少ないかもしれません、だったら尚更のこと、デメリットをメリットに転化するための「言い聞かせ」が必要となります。

それは自分を支える杖となりますから。

もちろん、杖を否定するものではありません。杖があったからこそ、生きてこれたのだから。

杖がなければやっていけない悲しみ、それはゼロにはならないと思うのですよ。ゼロにできる人もいるのかもしれません。

ゼロにできた、ということこそを杖にしていらっしゃる方もいるのでは。

痣を持って生まれてきた方は、それを選んで生まれてきた、という言い方はされていませんでした。なければそれに越したことない、と。

でも、これまでの自分を否定しないためには、そこから得たものを最大限に評価しなくては。

痣の「おかげ」でそれを得られた、と思わなくては。

痣がない人には、痣のある人が痣の「おかげ」で得られたものは得られません(当然。

乗り越えてきたものを、乗り越えてきた力強さ、という図式で語られてしまうことにモヤったのですよ。

サバイブできた人の何倍も、サバイブできてない人はいるのです。

サバイブできてない人に、サバイブできた人からの言葉は励みになることでしょう。

でも。

それは、杖をもつ力を持つまでに至ることができた人にであって、杖を持つことすらできない人というのはいるのです。

どうすればいいか。

あの杖に自分は手が届かない、杖を使えるようになどならない、と更なる沼に落とし込まないために。

それは、強者の立場から差し出されるものでは、できないと思うのです。

持って生まれたものがあるとするなら、それが災いから自分を遠ざけているというギフトの場合は、タマタマという考えで納得できるようになりました。
参考エントリー:【公開質疑応答その15】それを選んで生まれてきた

タマタマ論を支持するとするなら、そのタマタマをコントロールしているものの存在にも思いを馳せなくてはなりません。そこでまた途方にくれます。なに、それ、って。

ギフトをタマタマ貰えたもの、自己責任論で語れるものではないのだ、とは納得できるのです。それを司るであろう、大いなる存在については、この本が触れているような気がするのです。

花火の音だけ聞きながら

花火の音だけ聞きながら

 

では。

では。

それがあったから得るものがあったのだ、と言い聞かせるしかない、できれば関わりたくなかった事象についてはどうすればいいのか。

選んで生まれてきた、と思うしかないのか。

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