朝日新聞に「窓」というコーナーがあります。
市井の人々のちょっといい話を綴っているのですが、本当に「ちょっと」もあれば、神様ってすごいシナリオ用意してるよねー、というお話も。
「窓」をよく担当されているのが上原隆さんです。
ちっちゃいちゃんの物語
↑上原さんについて触れております。
直近の「窓」は
皿に口をつけて食う
腕が動かなくなったすし職人、
復活への執念
寝たきりの難病になりすし職人をあきらめるも、周囲からの励ましで復帰を目指して手術を受けるが、腕が動かなくなった。
妻の介護がないと食事もできなくなる。初めての食事の介助、妻は思いました、「これから人生をかけて夫の介護をする。その、ひと口目や」と。
さ、ここが今回の気づきポイントです。
だが誠治さんは拒否、泣きながら言った。
「こうして食べさせてもらったら、ボクは一生、キミの介護がないと生きてられない気がする」
誠治さんは口だけで皿の料理を食べた、犬や猫のように。
奥さんは役割をやってしまいそうになりました。
それが「介護する人」です。
奥さんが「介護する人」という役割をすると、誠治さんは必然的に「介護される人」という役割をふられてしまいます。
誠治さんはそれを拒んだのです。
「介護される人(寝たきり)」という役割を避けるために、奥さんに「介護する人」という役割をさせなかったのです。
これ気づけるのすごい!!
役割という考えのいいところはですね、それを手放せるということです。
ドラマの役を自分で選べるようなものです。やりたくない役だったらしなくていいのです、止めていいのです。
相手をどうにかすることはできませんが、関係は自分で変えることができるのです、役割を選択することによって。
例えば手がかかる夫、妻は「世話をする人」という役割をやって、その相方として夫は「世話をされる人」「世話が必要な人」という役割をせざるを得なくなるのです。
だって、私がやらないと何もしないんだもの、とおっしゃるそこのあなた。
役割のいいところ、手放せることです。
いち抜けた、をすればいいのです。
世話をする人とされる人の茶番劇なんてやってらんないわ!と舞台を降りるのです。
世話をする人がいなくなったら、世話をされる人の存在意義もなくなります。
めでたし、めでたし。
すし職人の誠治さんはまさに役割の「いち抜けた」をすることで、寝たきりにならずに済んだのです。
変えたい関係があれば、その関係において自分がどのような役割をしてしまっているか、考えてみてください。
気づけたら次は、違う役割の選択です。
演じて笑顔になれるような役割をなさってくださいね。