みなさんご存知のように(知らんか)、私はお正月の帰省の際に母と大バトルを繰り広げまして、
その後、手紙を送ったら送り返されるわ、電話をしたら、ウチの敷居は二度とまたぐな、と言われるわ、
実際、先日富山の献血ルームに行った際は母の家ではなく
(実家って感じしません。だって育った家じゃないし。
そう、これまでも帰省っていうより、母の住んでる家に泊まる、って感じでした。)
伯母の家で3者面談(私、母、伯母)となったのです。
以下、mixiよりまんま転載
*
『げっさシャネルの19番』
ええ、母の家には行かなかったですよ。だって、敷居をまたぐな、って言われたもーん。
だもんで伯母の家で母、伯母、私の3者面談です。
静かに話そうと思っていたのですが、いったん決壊してしまった堤防はもう抑えることができず、
開始10分後でまたしてもワンワン泣きだしてしまった私。
そのうちカッパのことまでとやかく言われてしまって、あったまに来てしまったのでありました。
ああ、だめだ、ボキャ貧だ。やはり昨日の3時間の出来事を語るには5000字以上が必要だ。まとめられない。
伯母が時々仲裁にはいってくれるのですが、
あんた、ちょっとはこの子の気持ち、わかってやったらどうながいね(富山弁)
人の気持ちなんか、私わからんわいね(富山ry
私の気持ちを誰もわかってくれんがに(富ry
なんで私が人の気持ちわからんといかんがいね(とry
ま、こんな感じのトークバトルが延々と続いたのでありました。
あ、ここで、おかあさんも寂しかったんですね、とかってコメントはどうぞなさらないでくださいね。
母が受けて来たダメージは十二分にわかっていたからこそ、私は長く自分を出すことはしなかったのです。
しかし、お正月の母の決定的な一言で、保って来たそれが壊れてしまったのです。
行きのサンダーバードの中で胃をキリキリさせながら、
なんでこんなことになっちゃったんだろうな、と振り返って、
やっぱ始まりは去年の8月のコアトラセミナーだなあ。
そのあとうっかりマツコの口車に乗ってしまったせいで、余計にこじれたような感じがするよ。
ま、今さらどうしようもないのですけど、マツコから得た最大のものは、
この程度でこんだけお金とれるんだったら、私だって1時間1万とってもええんちゃう?という
たいへん前向きなものでwww。
あの時、マツコに提示された供養を必死でやったのも、
なんとかセッション代の元を取らねば、という気持ちが強かったんだと思います。
もう「あの手のもの」からはすっかり気持ちが離れてしまいました。だって、救いにならなかったもの。
母とは生活をともにしたことがないので、あんたって子は、的なものの言い方をされたら、
私のことなんて何も知らないくせに、とまたむかっぱらがたつのですが、
伯母や祖母のほうが私についての情報量は段違いに多いのですよ、母にかわって育ててくれたから。
で、伯母が昔のエピソードをいろいろ披露してくれたのですが、
幼稚園ぐらいのときやったかねえ、いっしょに歩いとったらいきなり、
ママだ、ママがいるっ、って言い出してあんたのこと探し出すがいぜ。
ほら、あんた使っとった香水あるのかいね、あれと同じが使っとる人が近くにおったがやろうね、
その匂いに気づいて、あんたがおるがやと思ってあんたのこと必死で探しとったわいね、この子。
って。
いやー、泣けましたね、幼い自分のいじらしさに。