はい、本日のテキストはこちら
朝日新聞夕刊:食べられません〜西加奈子「翻訳」
あなたが好きです
このフレーズを脳内で再生してみてください。どんな風に再生されてますか?誰の声で?どんな口調で?誰の顔が思い浮かびましたか?どんな場所で言われてますか?言われた時のあなたの様子は?どんな服装してますか?
見えるもの、聞こえるもの、脳で処理される時にはすでにフィルターがかかってます、自分という演出家の。
参考エントリー:好みの声優さんっていますか?
フィルターってつまりビリーフです、色眼鏡です。
萎縮癖があるという方は、怒られるんじゃないかな、っていつもビビってるんですよね。
ちょっと、それ取ってくれる?
あ、これですか?
ちがうー、そっちじゃなくてこっち
この「そっちじゃなくてこっち」という短い台詞がですね
なにやってんの、それって言ったじゃないの、なんでわかんないの、ほんとにあんたは何やってもダメな人ね、もうあんたには何いってもダメだからもういいわ!!
これくらいに、瞬時にして脳内でおもっきし拡張されてしまってるんですよね。
間違いは誰にでもあることです、間違いがあったら訂正されます、訂正されないと正しいものが何だかわかりません、指摘してもらえるってのはありがたいことなのです。
でも。
そのありがたい指摘に「叱責」「人格全否定」というフィルターをかけてしまってるんですよね。
なんで?
叱られたから。間違えた時に叱られたから。
誰から?
以降、あなたは自分の間違いを指摘されるというシチュエーションに対して、あなたを叱り倒した人を登場させているのですよ。
AじゃなくてBだよ、というただの指摘を、なんべん言うたらわかるんや、Aちゃうやろ、Bやろ、ほんまお前はあかんヤツやな、お前とか産まんかったらよかったわ、あんたさえおらんかったらとっくに離婚できとったのに、あんたのせいで人生わややわ、と演出してしまっているのですよ。
もちろん、叱責されたという穴ぼこを埋めることが一番必要なことです。でもそれが出来ないのであればあくまで対症療法としてですが、演出を変える、ということが有効です。
AじゃなくてBだよ、という台詞を超絶叱責バージョンで演出するのではなくて、あなたの好きな俳優さんに好きな演出で語ってもらうのです。
AじゃなくてBだよ、ということは、理性では叱責ではなく単なる指摘だということはあなたもわかりますよね?
そうですね、近所の優しいおばちゃんバージョンでいってみましょうか。
ごめーん、それ取ってくれる?あ、ありがと、あー、ごめん、ごめん、AじゃなくてBなのよ、欲しかったの、ごめん、ごめん、私の言い方が悪かったわ、手間かけてごめんね、あ、よかったらAもらってくれない?私はBだけあればいから、もらってくれる?ありがとう!!
こんなカンジで。
理性ではわかっているのです、怒られているのではない、ということが。でも、感情が反応してしまうんですよね。なので、理性さんに活躍してもらうのです。理性さんを演出家として、叱責バージョンではなくて優しいおばちゃんバージョンでいくのです。
舞台装置も重要です。叱責バージョンを頭で思い浮べたなら、暗い背景になると思うんですよね、優しいおばちゃんバージョンだったら明るい、暖かい感じになるのではないでしょうか。
なので、AじゃなくてBだよ、がやってきた時に、背景を暖かい感じにしてしまうんです。すると勝手に優しいおばちゃんバージョンで事は進みます。
文字にすると長いですけど、頭の中では一瞬で行われてしまいます。習慣にしておくべきことは、まずは理性さんに登場してもらうこと、これは叱責ではないのだ、単なる指摘なのだ、とうるさく言ってもらうことです。
1:叱責バージョンではない、心地よい演出の詳細を設定しておくこと
2:理性さんに、これは叱責ではないのだ、と言って貰うこと
3:萎縮してしまう状況になった場合、2と1を発動させること
慣れると自然にできるようになりますよ。その頃には叱責による穴ぼこはかなり埋まっていることでしょう。