これ⬇︎の続き
えへへ、やっぱり最終回は何回か続きそうです(最終回の意味ないじゃん!という突っ込みはなしでお願いしますよっ)。
念のために。
私は「それを選んで生まれてきた」派ではありません(キッパリ。
問題にぶち当たってどうにも解決できない時、救いをもとめたら回答として「あなたがそれを選んで生まれてきたのよ」と何度となく言われ(特に、「見える」系の方々から)ました。
そう思えたらどんなに楽か。
選んで生まれてきたと思えと言われて思えるなら警察いらんやんね!!
コネクトロンに持ち込まれる相談内容の難度がどんどん増してきて、得意とする「風が吹けば桶屋が儲かる」をはっきりさせるだけでは納得していただけないケースが増え、これは一体どうしたもんか。
常日頃申しておりますように、人は痛い目にあったら痛い目にあわせた人を恨むのではなくて、そうされてしまった自分、と自分を責めるのです。
なぜなら、問題が理不尽であればあるほど、解決できなければできないほど、なぜそうなってしまったのか、と原因探しのほうに気持ちが向いてしまうからです。
もういっかー、と終わらせることができないので、いつまでたっても前を見ることができません。過去に引きずられっぱなしです。
なぜ私がこんな目に
その手取り早い回答が「自分が悪いから」です。そう思いさえすれば、とりあえずの結論にはたどり着けるのです。
私は「選んで生まれてきた」説をどうにも受け入れることができませんでしたから、当然それを問題の渦中にいる方に押し付けることもできません。
が。
世の中にはそれを受け入れることができる人がいるのですねー。そして、問題が解決するというより、少なくとも悩み続けるという状況からは脱却していらっしゃるのですねー。ウラヤマシス。
どうしたら「選んで生まれてきた」説を受け入れられるようになるのか
もしくは
受け入れられないなら、それに代わるものを提供しなくてはならない
この2つが課題として私の前に立ちふさがったのですよ!!
頭を抱える日々が続いた結果、前者は「信じる者は救われる」に、後者は「あなたは悪くない」にたどりつきました。「あなたは悪くない」については、ずっと言い続けてることです。なぜ悪くないのか、という根拠も提示できてるつもりですが。
が。
受け取っていただけない場合、マリアナ海溝なみの深い罪悪感の沼に沈みこまれている場合はどうしたらいいのか。私の言葉では説得力がないのだ。
悪くない、と免罪すること、弱さを認めること、そう考えることに背中を押してくれたのは、なぜかキリスト者という括りに入る方の著書ばかりでした。
ゼロからプラスに積み上げていくのではなく、まずは穴を埋めてマイナスをゼロにしなくては、というのがコネクトロンの「ヨシヨシ」です。
ヨシヨシは、あなたは悪くない、とセットなのです。
あなたは悪くない、を納得していただくためには私の言葉に説得力を持たせなくてはならない。本田哲郎神父なみの!と思ったら、やっぱキリスト教的なものを勉強しなくてはならないではないですかー。
すると、選んで生まれてきた、と、あなたは悪くない、という二律背反的なものにさらなる混迷をもたらすようなものがやってきましてね。
あなたは悪くない、の根拠にしようと思っていたキリスト教的なもの、熱烈キリスト教信者さんというのはまさに「信じるものは救われる」を体現なさっているのですよ。
その最たる方が三浦綾子。あの方は、病気まみれの人生でさえ、もとい、それこそが神の思し召し、と受け入れているのです。
キリスト教・祈りのかたち―三浦綾子vs.ひろさちや対談集 (生命との対話)
- 作者: 三浦綾子,ひろさちや
- 出版社/メーカー: 主婦の友社
- 発売日: 1994/02
- メディア: 単行本
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そらーそこまで信じることができたなら、それこそ「信じる者は救われる」ですよねー。
それを選んで生まれてきた、と言われて受け取りがたいものといえば、自然災害であったり難病であったり、キリスト者はそのあたり、どう折り合いをつけてるのか、答えになるものはないかと手にとったのがこちら。
著者は聖書を気仙沼の言葉、ケセン語に訳された医師です。3.11で被災されました。自然災害に対してキリスト者はどのように向き合っているのか。
タイトルそのままです、「なぜ、と問わない」のですよ。神様、どうして私をこんな目に?と思わないのですよ。
余談)遠藤周作の「沈黙」、迫害にあった神父たちは「なぜ」と問うていましたよね。それに対する神からの返事はないのです。
宗教とは人間が太刀打ちできない自然災害をいかに納得させるか、という手段のために発生したものだそうです。まさに、まさに!信仰深い方々というのは宗教を本来の意味で正しく使われているわけです。
やっぱり宗教、信仰に頼るしかないのか。でも、モヤります。
「それを選んで生まれてきた」の続きが書けずにいるとき、水曜の漢医堂の「心の相談日」にお越しくださった方に続きをうながされ、実は答えになりそうな本にであった、と言いました。それについてそのうち書く、と言いながら書く書く詐欺をしてましたが、その本がこちら(Kさん、これですよっ)。
書かれていることが重すぎて、感じたものをいまだ言語化できずにいます。なんか大切なことがいっぱい書いてある、読んでいっぱい気づいたはずだ、でも、言葉にできない、というもどかしさがずーっと。
神様はいるのか、という章のまとめにこうあります。ご自身の信条として
1:全部気のせい
2:そのうちなくなることが今はまだある
3:神様はいるでしょう
私の中で絶対にぶれないものがあります、それは「あなたは悪くない」ということ。免罪、罪悪感からの解放につながるものがキリスト教にあるのなら、弱い人に寄り添うことができている本田神父的なものに近ずけるのであるなら、聖書をちゃんと勉強しないと、アンモナイト。
ホテルバイトも辞めて朝の時間が空いたので、近所の教会の早朝ミサ(6:30〜)に通い始めました。
聖書はひとりで読んでてもほんまわかりませんでしてねっ(バカ。
神父さまの説教をきいて、あ、そういう意味だったのか、と膝の皿を割ることが多かったですが、最初からわかるように書いとけよ、と思った私を許してください。
毎朝ミサに来る方なんて筋金入りのコアな信者さんばかりですよ、この子なによ、という冷たい視線を浴びながらいつも最前列にいました。ま、雰囲気はばっちりですし、神父さまの衣装(?)もすごかったし、ためになる話もあるし、このまま続けていったら受洗することになるのかな、と思っていたのですが。
が。
母のことで崩れてしまいましてね。そらー半鬱みたいになって朝から飲んでるやつが早朝ミサに行けるはずもありません。そこで教会が救いになる、支えになる、というとこまで私の信仰心は育まれてはいなかったのですね。
また続かなかった、とダメポ沼に沈み込みます。キリスト教的なもので得ようと思ったもの、じゃあ他の何かに見つけなくてはならない、それとももっかい頑張って教会に行くべきか、と悩んでいたところに、救いの灯火となるものが現れました!!
兎の眼、天の瞳は読んでいましたが、教育熱心な方、ぐらいのイメージしかありませんで、経歴を初めて知りました。
なんだ、宗教にも頼らずに綺麗事も言わずに貫いてる人がここにいるじゃないか!いろいろごちゃごちゃ考えずにやればいいだけのことじゃん!!
教会に行けなくなったことの罪悪感からは解放されました。
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