みなさんすっかりお忘れのことかと思いますが、こういう未完の連載がありましてね!
3)占いは心の風俗か
なんで思い出したかというと、今日の朝刊がこれでしてね。
https://www.asahi.com/articles/ASL144388L14OIPE00L.html
かつて1回だけチャットの占いってのに登録したんですよ。そしたら、あまりの過酷さに心が折れましてね!!
ありとあらゆる罵詈雑言、悪意怨念その他もろもろをぶつけられまして!!
なんで?と知人にぼやきましたところ、チャットってのは電話でもなくメールでもなく、一番その人が思いを素(す)で出しやすいから、メールで文章かいてレトリックに悩むことないし、電話で話すのも苦手で書くのも苦手って人がチャットを使うんだ、って言われて膝の皿を割りましたよっ。
スマートフォンも普及しつくして、敷居がもっとも低いツールがチャットなんでしょうね。
見出しの「癒し求め」ってのを見て、まさに占いは心の風俗であるな!と未完の連載を思い出したわけです。
癒しでもいっこ思い出したこと。
みなさんご存知のように(知らんか)私はチビの同級生のおかあさんだった当時売れっ子占い師だった方から「あんたの天職は占い師や、私よりよほど売れっ子になるわ」と言われました(はずれてるよ、だって私、占い師じゃないもん)。
で、占い師よりもっと天職なのが愛人だ、って言われました。愛人って何をしたらいいの?と尋ねましたら、「癒すんや」と言われました。「あんたに癒される人があんたを愛人にするんや」と。
本妻じゃダメなんですねw
これも現時点でははずれております。愛人になれてません。これからなれるかもしれませんが!!
なぜ本妻では癒されなくて愛人なのか、という問題は置いといてですね。
つまり私の天職は「癒し」なわけです。
ちなみに、一番の天職は教祖だそうで、これはもうヨシヨシ教を設立せねばならないかと思っておりますよ!!
じゃあ、癒しってなんなのよ?と掘り下げていくとキリがないのですが、癒しなる言葉が氾濫したのは「癒し系」なる女性のカテゴリーができたときじゃないかと。
井川遥でしたっけ。
井川遙が癒し系ならお前は逆撫で系だな、と友人のダンナさんから言われたのもいい思い出です(遠い目。
癒す=HEAL
もともとは「治す」であったろうに、それがなんで「癒す」になっちゃったの?
傷口に塩を塗られたくないからではないかと。絆創膏を貼るだけでええんや、ということではないかと。
向き合うことなく、とりあえずの痛みさえ誤魔化せればいいのではないかと。
それが「癒す」と「治す」の違いじゃないかと今かいてて思いましたよっ。
既出ですけど、映画「TOMMY」、歌詞の「Heal Me」、以前の字幕は「治して」だったのに、今は「癒して」なんですよ。これは私の嗜好・志向のベクトルを決定づけた映画といっても過言ではありませんで。
風俗というとこに話を戻すなら、夫婦間のセックスならばいろんなぶつかり合いがあるだろうけど、風俗でのセックスはいらんぶつかり合いをする必要はなく、気持ち良さだけを提供してもらえる。
もちろん、それが必要なときもあります。ぶつかり合うことによる痛みがなくて、おいしいとこだけ得られるとこに、「占いは心の風俗か?」というフレーズが出てきたのかな、と。
そして、「癒し」効果に徹して占いをされているのかな、と。
えー、実は続きはとっくに頂戴してましてね。
今庄さま
秋の気配が日に日に濃くなってきたこの頃ですがいかがお過ごしでしょうか。
紆余曲折、夢中で占いの世界に入り、業界の裏も表もみた今、ではこれから自分はどうしたいのか。
なにを表現していくのか。
またひとつの岐路に立ちつつあります。数年前に、ひとつの岐路がありました。
ある講座に行こうか迷っています、と。
以前、今庄さんにお願いしたお題です。
結果は人間関係で苦労する、他所がいいよ。
この時点で、結果は凶です。けれど、今庄さんが投げかけてくれた言葉は、「学ぶ対象についての、覚悟が求められています。」と。
雷に打たれたような瞬間でした。申し込みの期日も迫っている。
まとまったお金もかかる。
自分に向いてるか、出来るのか。
それまでは、損得ばかりを考えていました。
そこで、わたしは初めて自分に向き合ったのです。
覚悟出来るか。
それでも、行きたいか、学びたいか。
出した答えは、行ってみる、でした。行った結果は、卦のとうりでした。
人間関係、感性のあわなさ、そこに自分の居場所は見いだせませんでした。
凶だったのか。
けれど、その一年後、わたしはその講座で学んだことを仕事に生かせるようになりました。
実りがあった、吉です。
そして今また、これからどうするか、岐路に立ち選択を迫られています。あの時、行かずにいてもまた違う道で、いいこともわるいこともあったでしょう。
吉も凶も善も悪もないのです。
自分の選択。
そして、その選択に責任をもてるか。
今庄さんはそれを問うてくださいました。占いとは、その人の持っている決断力や、生きる力を呼び起こすためのものである。
占いに出来ることはそれだけなのだ。
あとは、あなたが自分で決めて生きていくのだ。あの時の今庄さんのサイコロの卦が、わたしに教えてくれました。
丙火のマリア
これね、去年の9月にいただいてるんですよ!!
みなさんご存知のように、9月以降私は母のことでガタガタになりまして、いろんなこと考えられなくなったのと、「占いは心の風俗か」問題をつきつめると、「それを選んで生まれてきた」問題にもリンクしちゃってですね。
おかげさまで(誰のおかげ?)「それを選んで生まれてきた」はめでたくゴールにたどりつけそうなので、こっちも最終回にまとめなきゃ、と思った次第です。
さあ、まとめるぞ!
お正月、サイコロのお題を頂戴しました。
おひとりは、人間関係でのお悩み。
結果はサイコロ振るまでもなく、「イヤって言ったらしまいやん」というものでした。
つまりこの方は、「イヤ」が言えないのです。
もうおひとりは、択一とするご自身がとるべきアクションを提示していただけませんでした。
単純にサイコロで決められるものではなかったので、カードを開いてお時間をいただきました。
人が占いに頼るのは、先がわからない時。決められない時。不安を解消するには有効なツールでしょう。
たとえ他者から提示された結果だとしても、それを選択する決断は相談された方です。選択、決断とは選んだもの以外を排除するということですから、当然痛みが発生します。
それは決して、「癒し」などではないのです。
あなたの選択、覚悟の証です。
本来の占いは非情なもの。傷口に塩を塗るもの。
癒しではありません。
その場しのぎの癒しではなくて、塩を塗って、傷口を風にあてて乾かして、ぶつけても平気になるように「治す」。
パートナーと向き合う覚悟ができたなら、風俗に癒しを求める必要がなくなるかもしれませんねw
えー、現時点で書けるのはこれが精一杯です、しり切れとんぼでスイマセン、スイマセン。
占いのあり方としてはリチャード・ウィルヘルムという方が易のドイツ語版を出版した際に書かれた序文が一番膝の皿を割ります(ちなみに英語版の易のタイトルは『Book of Changes』、プロセスを示していると理解しています)。
易はふつうの占いの書の域をこえる。
ある占い師が依頼者に、1週間後にアメリカからお金が届く、と伝えたとしよう。
依頼人としては来るか来ないかわからないそのお金を待つしかない。
この場合、占いは定まっていることであり、人が何をすべきか、ということには関係ない。
だから占いには道徳的意味はない。
その昔中国で、とある人が初めて尋ねた。
ある人が未来を占ってもらって、ただ聞くだけでは終わらず、それなら私は何をすべきか、と。
この時、占いの書は知恵の書物とならざるを得なかった。
どうするか、その形を明らかするためにサイコロを振り続けています。