この2〜3ヶ月、私にしては珍しく映画館に頻繁に足を運んでいます。
おかしい、そんな暇あるはずないのに。
昨日はミッシェルガン・エレファントの絶叫上映、一昨々日はボヘミアン・ラプソディー、その前は、教誨師、Shunji〜あるヘアデザイナーの物語、築地ワンダーランド、泣き虫しょったんの奇跡、カメラを止めるな、累、万引き家族、あら、書き出してみたらそれほどでもないわ。
教誨師は原作の映画化だと勘違い。
映画は面会室での会話のシーンが延々と続くのですが、これがちょっとひっかかりまして。神父さんのこの喋りでキリスト教に心が向くかな、と。 最終的にはみな大杉漣の神父に心を許すのですけど。
なんだかなあ、と思いながら見ていたのですが、一人の死刑囚が洗礼を受けることになり、彼が神父に渡したメモの内容で膝の皿を割りました(ネタバレになるからメモの内容は内緒。
教誨師とは、「悔やませる」のが仕事です。悪いことをした、と己の罪を認めさせ、そしてそれを許すのです。
悪があることが前提です。
初めに原罪ありき、というキリスト教ならではの考えだな、と思いました。
死刑囚ですから、もちろん罪は犯しています。悪はあるのですが。
が。
罪を犯した
↓
悪いことをした、と認めさせる
↓
罪悪感を抱かせる
↓
許す
悔やませる、そして許す、というところにものごっついウエメセを感じてしまった私を許してください。導くのが仕事という神父だからなのでしょうか。
なぜ罪を犯すに至ったのか。罪を犯してしまってどのような感情を抱え込んでしまったのか、実際の教誨の現場ではその部分に触れることはしているのでしょうけれど、映画では描写が少ないように感じました。それゆえに、ウエメセの言葉かけで神父に心が向いていくことがしっくりとこなかったのです。
罪を悔やませるならば、それに至らざるを得なかった痛みにこそまずは寄り添うべきであろうと。
責めるのではなくて、責めさせるのではなくて。
丶(・ω・`) ヨシヨシ
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