これ↓の続き。
富山に行ったら必ず寄るのがこちら。
お酒がおいしい!魚がおいしい!
白海老の昆布〆が絶品でした。
子鮎の天婦羅が絶品でした。
頼むお酒によって盃を変えていただけます。ぴったりの口当たりで、お酒がすすんで困ります!!
いつもおいしいんですけど、今回は「これを食べることができて、生きててよかった!」レベルでした。
翌日に控えている用事へのプレッシャーがそうさせたのでしょうか。
古参の読者さまはご存知の「今庄ホテル」シリーズ、削除しなきゃよかったと大後悔。
超ざっとまとめますと
生まれてすぐに両親は離婚
↓
父からは、女の子はいらん、と言われた
↓
母からは、育てる気ない、と言われた
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親戚転々
↓
どこの家でも世帯主の暴力(セクシャルなもの含む)があった
かような環境に育まれた私のパーソナリティーです。
メインに預かってもらっていた母方の祖父母宅。家業があんころ餅屋でした。それが、小学校にあがるころには旅館業に変わりました。
一応旅館ですが、見た目も設備もどうひっくりかえっても連れ込み宿です。小学生が連れ込み宿とわかるはずもなく、そうとわかったのは大学に入ってから、って奥手すぎますか。18で、私の家って連れ込み宿だったのか!と気づいたショック、連れ込み宿の子、と陰でコソコソ言われていたのがわかりました。
その連れ込み宿での体験を延々と書いたのが「今庄ホテル」シリーズでした。
ホテルの宿泊客から性的対象とされたことが困りものでしたね。それ、誰にも言えなかったですけどね。
ホテル廃業後、母がずっとひとりで住んでいましたが、取り壊されたのは何年前だったか。その後、母は住まいが安定せず引越しを何回か繰り返し、私と絶縁もしました。
もう7年前かー、読み返してみたら、何をギャーギャー言うとんじゃ、って感じですが、この時は頭が噴火してたもんな。
この後何回か会う機会がありましたが、決定的に絶縁となり、何年も会ってなくてもう死んでると思ってたのに、脳梗塞になったからよろしくね♪と連絡があったのが一昨年。そして神戸の施設に入ったのが去年。
ほったらかしになっている富山の住まいをどうするか、その話し合いのために今回富山に行ったのです。
話し相手は、小さかった私を預かってくれていたおウチの方(従兄弟)。共有できる楽しい思い出などなく、家のために被った面倒のぼやき合いみたいになったのですが。
が。
従兄弟氏:和恵ちゃん、宮田町にどんながしておったかねー(高岡弁
私:えー、そんなん全然おぼえとらんがいね(高岡弁
従兄弟氏:なんでウチ来ることになったがいろね(高岡弁
私:タミコさん(母のことね)も言うとったわ、私もよぅあんたをセツコさん(骨肉バトルをした母の姉なこと)のとこに預けたもんやわ、って
従兄弟氏:おとうさん(従兄弟氏の父のことね)が和恵ちゃんのこと預かって、なんも言わんだちゃね
あれ?
なんかひっかかったよ?
宮田町の叔母夫婦の家に私は預けられていました。母が叔母に頼み込んだのでしょう。叔母は骨肉バトルとなる前は私のこと、それはそれはよく面倒をみてくれていたのです。頼み込まれてか、見かねてか、いずれにしても叔母家族と私は生活を共にしていました。
そこには叔母の夫である叔父もいました。
和恵ちゃんのこと預かって、なんも言わんだちゃね
従兄弟氏からみても、叔父の私への処遇はそうきついものではなかったのでしょうか。むしろ、気遣っているテイストが醸し出されています。
ちょっと待って。
叔父叔母夫妻は私と母にとって敵でした。実際、わかりやすくいろんな目に合わされたし。そんなゴタゴタが嫌で、私は神戸に出奔してしまったわけですが。
叔父叔母夫妻には嫌悪みたいなものしかなかったのですが。
和恵ちゃんのこと預かって、なんも言わんだちゃね
こんな奴あずかって、とか
こんな奴さっさと返してしまえ、とか
そういった発言はなかったようなのです。
ひょっとして私、よく処遇されてた?母が、鬼のように恨みをぶつけていた人たちに、まさか私はよくされていた?
従兄弟氏の小さい頃の発言が思い出されました、和恵ちゃん、おとうさんもおかあさんもおらんで可哀想やがいね、と。
まさか可哀想がられて大切にされてた??
そう思った瞬間、なんか温かいホワホワしたものがやってきた感がありました。
やっべー
母ほど恨んでいたわけではありませんが、敵と認識していた存在がそうでなかったとしたら。
敵ありき、でやってきたこれまでは一体どうなるのか。
私のアイデンティーはどうなるの????
どんなアイデンティディーかって?ちっぽけで惨めな黒タママちゃんですやんねー。
これまで腹の中で悪態をついていた人たちに対して、地面に穴があくほど頭を下げなくてはならないのか。
私もいい人にならなくてはならないのか。
沸き起こってくる感情がありましたが、必死で蓋をしました。
話し合いは終わり、従兄弟氏が車で送ってくれるというのを断って、歩いて帰ることにしました。
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