これ↓の続き。
昨日だったか一昨日だったか見つけたツイートにですね、どこぞの妻さんがですね、500円のパンツを買って貰えない、という嘆きがありました。
説明しよう!
下着って消耗品ですやん。ブラジャーを新調しようとしたら夫さんが「どうせ見えないんだからいいじゃない」って言うそうなんですよ。ショーツがくたびれてきたんで新調しようとしたら「どうせ見えないんだからいいじゃない」って言うんだそうですよ。
買い物するにあたり、いちいちお金を夫さんから貰わなきゃいけないのかどうかまではわかりませんでしたが、とにかく自分が欲しいと思ったものを欲しい時に買えないようなのですよ。
見えないから、って私ブラジャーもパンツも身につけちゃいけないの?と嘆いておられました。
そして。
夫さん、自分の娘には欲しがるシールとかをバンバン買うんだそうですよ。シールって1個100円ぐらい、5個買ったら500円です。娘のシールはよくて私のパンツはダメなのか、と嘆いておられるのです。
そしてご本人だったかリプライだったかは失念しましたが、それってモラハラよね、という指摘がありました。言わば経済DV。
そんなの、欲しかったら買ったらええやんか!と言える人は幸せな人。モラハラ野郎に目をつけられることもありません。
モラハラ野郎は目ざといのです。抑圧に対して声をあげれない人を選ぶのです。
夫さんのダメ出しにめげず、500円のパンツを買えるかもしれません。
でも。
買ったらダメ、お前のパンツは娘のシールだけの値打ちもない、って常に言われてるのですよ。ダメ出しされているのですよ。そんな環境がメンタルにいい影響を与えると思われますか?
我慢できることと平気なことは違う
我慢できてても、ダメージは受けているのですよ。ここ大切です。試験に出ます。
参考エントリー:暴言以外にもあなたを傷つけるものはある
ほらほら、昔の拷問で水のシズクをずーっと滴らせるってのがありますやん。たとえ水のシズクでも、続けばそれは石に穴を穿つことができるのですよ。
それと同じです。
言われたその場で「痛いやんか!」と言えないものほど、ボディーブロー効果で積もり積もるダメージとなります。石に穴があいた時点では、何のせいで穴が開いたのかわからなくなっている恐れも。
だからこそ、痛みにこそ敏感であっていただきたいのです。痛い、私は傷ついた、と抗議の声をあげていただきたいのです。
攻撃が正論であればあるほど抗議はやりにくいですよね。だって相手は正しいのだから。
じゃあ正論ってなんなのよ?
長く続いた根拠もわからないくらいに空気のように受け入れられているもの。多数派。個性を受け入れにくくする雰囲気。誰かの勝手な言い分。
前述の500円パンツの事例、モラハラだと思えませんか?思えないとしたら、あなたは幸せな人。
もしくは、500円のパンツを買えないことが当たり前だと思わされてしまっている不自由な人。
シェリーちゃん、パンツを買うな、とは言われていませんが。
が。
自分で選んだパンツを「また、そんなパンツ」とdisられるのです。パンツに限りません、一事が万事です。選んじゃいけないわけじゃないんです、自分で選べてるんです、でも選んだ結果には必ずといっていいくらい「また、そんなもの」というジャッジがセットなのです。
それは子供の時におとうさんから投げかけられただけではありません。大人になった今も、おとうさんからも、仕事場の人からも、関わる人の多くから言われ続けているのです。
これがメンタルにいい影響与えると思えますか?
いっそ、制限や禁止をされたほうがマシなんです、抵抗できるから。でも、自分では手足を伸ばしているつもりでも、周囲の壁にもっと伸ばすことを制限されます。もちろん、どうせまた言われるやろうな、というガードもあります。それがシェリーちゃんの世界をせばめているのです。
実はあなた傷つけられているんだよ、傷ついているんだよ、ということをどうしてもわかっていただけません。
前回でてきた中一の頃、シェリーちゃん、いくらテストで98点をとっても「100点ではない」と褒めて貰えなかったそうです。こんなにわかりやすくダメージ受けていらっしゃるのにね。おとうさまは自分が望むもの以外は認めなかった。
100点をとれる娘、自分にとって好ましいものを選ぶ娘。それ以外、娘が自分なりの好みや個性を発揮することは望んでいらっしゃいませんでした。
その縛りの中で目一杯動いてこられたことでしょう、シェリーちゃん。それこそが持ってうまれた力ゆえ、です。おとうさまに屈しきることなかったのです。
でも。
おとうさまの用意した鳥かごは、シェリーちゃんの持つ力には狭すぎるのです。
お題としていただいた「お金を返して貰えない」、これ、「返して」という想いがちゃんと伝わっていないということです。返して貰えないことには、もう2つの意味があります。
1:お金がないことで、やりたいことができない、という制限
2:必死の想いを軽んじられてしまっている
だってシェリーちゃん、ご自身の価値観を受け入れられないこと、否定されてしまうことに対して「どうせ」とあきらめられてしまっているから。「どうせ」は相互です、どうせ私なんて、と思っていると、どうせお前なんか、という扱いしかされません。
私はこれが好きなんや!これがやりたいんや!という想いは胸の中ではたぎっているのでしょうけれど、体からあふれ出ないように自らしっかりと蓋をされています。
お金を返して貰えない、というシェリーちゃんのお題に対してコネクトロンとしては、自分を心置きなく出すことができなかった痛みを自覚していただきたい、そして自分が本当にしたかったこと、そして自分の器の大きさも自覚していただきたい。すると現況が自分に見合ったものではないということに気づいていただけ、ふさわしい本来の土俵へと居場所を変えることができるでしょう。必要なお金が戻ってくることでしょう。
シェリーちゃんの滞りとなっていたのは、「どうせ」というあきらめでした。実は私もシェリーちゃんのあきらめの深さに、うるさく言い続けることをあきらめそうになりましたけどね。
そうも悲しかったのですよ。
自分で選んだものを「これ、いいでしょ!」って言ったら、「素敵!」「似合うね!」「シェリーらしくていいな!」とかって言って貰えたら嬉しいですやん。言って貰えて嬉しいことを、ちっとも言って貰えてないんですよ。
悲しくないですか?
シェリーちゃん、かわいそうじゃないですか?
私はシェリーちゃんがかわいそうでなりません。
丶(・ω・`) ヨシヨシ
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