昨日は選挙速報のために人生案内はお休みでした。
先日、献血したときのこと。
前検を担当してくださった看護師さん、いつ針を刺したかわからないくらいの巧みさでして!
間違いなく今世でベストの注射が上手です。
お上手と思われないように、その巧みさを伝えたところ。
ろ。
痛くないなんてラッキーでしたね、今日はいい日ですね。
って言われたんですよ!!
自分の技術を誇るでもなく謙遜するでもなく、私が痛い思いをしなかったことにのみフォーカスされて。
神なの!!!!
まだお若い方でした、いかにこのような考え方に至ったのかを詳しくお話し聞かせていただきたいとこです。
これはなかなか衝撃的な体験でした。
腹が立つことがあれば、主語を自分にしろ、っていうじゃないですか。
例えば、子どもが何か壊したなら
なんでこんなことすんのよ!と怒るのではなく、
物が壊れて私は悲しい、と言うのだそうですよ。
怒ってる時にこんな冷静な反応できないかもしれませんが。
主語を自分にすると、相手へのジャッジがなくなるのですよ。
あるのは自分の感情のみ。
私は「人のためは自分のため」だと思っています。
いえ、思うようにしていました。
改稿:人の心配は何のためにするか
私がそうなのです。
私が業病クソバイスに冒されてしまったのは、母が「私が病気になったのはあんたを産んだせいや」と言われ続けたためです。
自分の”せい”で病に苦しむ人が目の前にいるなんて耐えられません。
あんたのせいや、と言われているも同然です。
病苦をどうにかして取り除いてあげたいのです。
いえ、あげたくありません(どっちやねん。
自分を罪悪感から解放するために、自分のために病苦を取り除きたいのです。
正確には、病苦さんにどっかに行って欲しい、と言うのが的確でしょう。
癒し系、医療系の仕事を目指す方々が口を揃えて「人のために」「人を助けるために」と言われますが、多くの方が動機として自分や家族が病気だったことをあげられます。
わかりやすい癒しのお仕事、医療系だけが「人のために」なることの手段とされていることにも違和感がありました。
どんな仕事だって人のためやん。
「人のために」と思うことは傲慢だと感じました。
「人のために」はあくまで「自分のため」なのではないかと。
それをひっくり返す書物と遭遇しました。
主語を「自分」とすることはやはり良くないのだそうです。
そして「人のために」という考え方も結果的には負のスパイラルとなることが説明されていました。
この書籍で私が一番衝撃だったのは「与格」というものの存在です。
ご存知ですか?与格。私は不勉強ながら知りませんで。
例えば、「私はうれしい」と言う場合、ヒンディー語では「私にうれしさが留まっている」という言い方をします。「風邪をひいた」も同様で、「私に風邪が留まっている」という言い方をします。この「〜に」で始める構文を「与格構文」と言います。
これは、前述の相手をジャッジしないために自分を主語にする、というやり方以上に誰をもジャッジしません。
この考え方、イスラム教に近しいものを感じました。イスラム教ではいいも悪いも全て神様が決めたことだから、自分のせいではないのですよ。
神様の”せい”なんですよ。この考え方もなかなか衝撃でした。
与格では、「あなたを愛している」は、「私にあなたへの愛がやってきて留まっている」となるそうなのです。
なんか美しくないですか?
苦しい気持ちのやり過ごし方としてこの与格は大変効果的だと思います。
さて既出ですが、数ヶ月前私は死にたかったのです。
もちろん死にたいというのは本当に死にたいのではなくて、今その現状がイヤなだけです。
嫌な現状からの脱却として死ぬことしか思いつかないなんて、死刑になりたいから人を殺すってのと同じですよね。
お前のせいで病気になった
そう訴える人を治せなかった
助けられなかった
でも、私ができない「治す」ということを(一見)たやすくやってしまう人たちがいる。
その人たちの存在が私を黒タママとしたのです。
黒タママとは長年互いにぼやきながら付き合ってきたつもりでしたが、「僕なんかどうせ」「ちっぽけで惨めな僕」が飽和状態に達したようで、どうにも抑えられなくなりました。
それが、死にたい、という気持ちになったのでしょう。
毎日滝を眺めながら、ここに飛び込んだら死ねるかも、と思っていました。
与格で表現するなら
私に死にたいと思う気持ちがやってきて留まっている
という状態でした。そして
死にたいと思う気持ちは他所に行ってしまった。
いえ、行っていません(どっちやねん。
チビもいるし死ぬわけにはいかない、死にたいという気持ちをどうにかしなくては、と必死で考えたのです。
アイデア100個出しとか一見理不尽なアイドルの100キロマラソンとか、やっぱやり尽くすと出てくるもの、見えてくるものがあるのですよ。
私を「死にたい病」から救い出してくれたもの、それが姿を表した時がほんま後光が差すような感じだったのですが、そのものの存在が「思いがけず利他」に示されていたのです。
身も蓋もない言い方をするなら、過去の見え方がこれまでとは全く変わるということ。
そういうことだったのか、そうだったのか、と気付けること。
自分で思っている以上に、気づかないギフトをたくさん受け取っているということ。
貰った時点ではそうとわからないギフト、それが利他なのかな、と思いました。
この本に出会えたことで、死にたい病はいったんお休みです(またいつ”死にたい気持ち”がやってくるやわからんし。