好きなものを共有できないより、嫌いなものを共有できないことのほうがデメリット大きいと思うんですよ。
好きなものと触れ合えないことと、キライなものを強要されること、どっちがしんどいですか?
私は後者ですけどね。
お酒がなくても耐えられるけど(ほんとか?)、納豆しか食べてはいけないって生活は耐えられないです!!
このように、食べ物の好き嫌いで例えると非常にわかりやすいと思うのですが。
自分がキライになる時ってどんな時ですか?
ダメな自分、って思っちゃう時ってどんな時ですか?
納豆がキライな私、なんてダメ人間なんだ、って思うことそう無いと思うんですよ。
納豆食べれたら、身体にいいんだけどな、ぐらいでしょ(っつか、私はそうなんですが。
自分にダメ感を抱いてしまう時って、
世間との価値観に合わせられない時、多数派に迎合できない時なんじゃないかな、って。
正論にのっかっていけない時なんじゃないかな、って。
正論=多数派=コモンセンス
正論=キレイゴト
3段論法です、そう、人はキレイゴトにのっかれない時に自分ダメ感を抱いてしまうのではないかと。
誰とでも仲良くしましょう、とか
汚い言葉を発しちゃいけません、とか
ネガティブはダメです、とか
一見ポジティブなもの(建前)が、
ネガティブ(本音)を必要以上に抑圧してるんじゃないかな、って感じることすごく多いです。
がんばって清い心を維持しようとしている人の痛いことよ(ああ、言っちゃったよ)。
よりポジティブであろう、より清くあろうとしてそれが出来なかった時に、
ああ、ダメな私、ってみんな言います(書きます)よね、んで、それに対して、
ううん、そんなの当たり前よ、私だってそうよ、という共感をひっぱりだす。
その共感の場はさぞかし心地よいことでしょうね〜。
傷の舐め合い。
同病、相哀れむ。
共感が心地いいんだったらさ、最初から言えばいいぢゃん、あいつがキライだ、これがキライだ、って。
そのほうが、よっぽど盛り上がりますよ。
私、納豆きらいなの。
え、私もよ。
オレもだよ。
あんなもの食べれる奴なんて信じられないっ。
納豆好きとは結婚できないっっ。
こんな感じ。
本音を抑圧すると、建前が強化されます。
それがね、アメリカがやってることなんじゃないかな、って思うことあります。
平等とか差別がないとかありえないんですよ。
好ましくないものの存在を認めた上で、
じゃあどうやって折り合いをつけていこうか、ってのが無理のないやり方なんじゃないかな、と。
そ、関係ってのはすべからく、折り合いをつけること、だと思ってオリます。
折り合いをつけるって、自分を抑えることじゃないんだよ。