みなさんご存知のように(知ってるよね!)私は故・小田嶋隆センセの熱烈信者でした。センセの御著書は教典。
センセとの出会いは音楽雑誌クロスビートのコラム。センセがあまりに原稿を落とすので、その穴埋めとして起用されたのがリリー・フランキーさんというのは知るひとぞ知る話です。
本日小田嶋隆送別会が終了致しました。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) July 2, 2022
今までどうもありがとうございました。
本人のTwitter・ブログ等はこのまま残しておく予定です。
よろしくよろしく。
小田嶋隆センセの講座に東京まで通ってました。ご贔屓バンドのライブに行くのと同じノリですね。
センセが体調を崩されてからはオンライン講座となりましたが、それも完走とはならず。
提出したことも忘れていた課題への講評が今日届きました。小田嶋センセは読んではくださっていたそうですが、テキスト化することはかなわず。代わりに綴ってくださったのは文芸評論家の市川真人先生です。
読んでいただけますか。
「推し」に押されて:今庄和恵
悩み相談のような仕事をしています。多いお悩みが「自分が何が好きなのかわからない」「自分の好きを出せない」です。そんなことわざわざお金だして相談にくるなんて!と驚かれるでしょうか。
この2つを表だったお題として携えてこられる方はそう多くありません。お話ししているうちにお悩みの根っこ、本当に解決すべきことが「何が好きかわからない」「好きなものを好きと言えない」という現象だと判明するのです。
お仕事やパートナーの選択において、つまりはマッチングですが、自分をジグソーパズルのピースだとして、そのピースの形がわかっていないと組み合わせるべき他のピースの形がわかりません。
ここで初めて、自分ってなんなのよ?ということに向き合わざるを得なくなるのです。
私は人を構成するのはその人の「好き」と「嫌い」だと思っています。それがわかっていれば、ポジベースであれネガベースであれ、パズルのピースはうまくかみ合うのです。
好きなもの教えてください、とお尋ねします。ここで行き詰まるのです。そして「何が好きなのかわからない!」「好きなものはあるけどそれを人に言うことができない!」とほとんど悲鳴のようなお返事が。
表の問題:マッチング
↓
その下の根っこ:好きがわからない、出せない
この下にさらにもう1段階ありまして、それが本当の原因です。それは「好きを出させてもらえなかった」「好きを否定された」という子ども時代の痛い体験です。
さらに、大人になると「好きを出せない」はたやすく「すごいものじゃないと出してはいけない」に変換されてしまうのです。
マニアックにすごい知識がないと好きと言ってはいけない、仕事にできるくらいの技術がないと好きと言ってはいけない、等々。ただの「好き」は存在を許されないのです。
好きなものがないわけではありません、好きの種はみなさんお持ちなんですが、水をやっていないから芽が出ない。日のあたるとこに置いてないからもやしっ子になってしまう。こんなの知らないとネグレクトの結果、せっかく伸びたものも枯れてしまう。
さあ、どうしたら好きの種に水をやって育てていただけるのか。その作業が習慣化されるのか。いいものがやってきました、「推し」という概念です。「推し」と「好き」は何が違うのか。
「推し」行為にはジャッジを意に介さないパワーがあるように感じます。「好き」にはジャッジが伴います。あんなもの好きだなんて、というような。「推し」という言葉が、「好き」を封じられた時にはなかったせいかもしれません。「好き」は言えないけど「推し」なら言える。「推しに課金」なら無駄遣いという自責なしに好きなものにお金を使える。
現在の「推し」が過去に抑圧された「好き」と似ても似つかぬものでもいいのです。「推す」という行為で「好き」を言えるようになるリハビリをしていただきたいのです。
たまたま目についたアイドルやアニメ、それにちょっと熱心になることを「推している」と自認することによって、好ましいと思う対象に接することや語ることへの抵抗が薄れていきます。その結果、気持ちの奥底で眠っている「好き」の種が芽吹くきっかけになってくれたらいいな。
そして、自分の好きを表明することへの忌避感がなくなり、ジグソーピースのパズルの形がわかり、自然とかみ合う他のピースと繋がっていけますように。
推しの力で押されていくこと、それが私の推しです。
【講評】
「いいものがやってきました、「推し」という概念です。」という一文が、とても魅力的でした。そこまでの論理も、そこからの展開も、いずれも納得いくものですが、この一文があることがこのエッセイを輝かせています。ひとつの文が、文章全体を引き立てる、とてもよい例だと思います。
「好きなこと」と「推し」の違いも、とてもよくわかります。昔はそれを「好き」と言ってよかったように思いますが、それが言えなくなったとき、より個人的で価値観を含まないと宣言できる「推し」という言葉が流布したのですね。またそもそも、「ピースのかたちがわかっていないと、組み合わせる相手もみつからない」というのは、すべての物事に通じるものだと思います。
こうした視点を持てる相談者に相談にいけるひとは、幸せだと思います。
ひとつ欲を言えば、最後の「推しの力で押されていくこと、それが私の推しです」、この一行はちょっと蛇足だったかもしれません。すごく論理的なエッセイですから、駄洒落?で落とすことなくとも読後感は十分でしょうし、そうでなくわざとここで「推し」という言葉を使ったのだと理解すると、「推しで押されることが大事」という主張が、(そこまでの文脈から)論理ではなく「好き」でもなく、個人的な感覚のように見えてしまうかもしれないからです。
そのことも含めて、書き手の戦略かもと思いますが、これだけ明快な論理は、「推し」でなく違う着地があってもよかったかも、と思いました。 (市川真人)
↑これは私の勲章です。看板にしたいです。
小田嶋センセが亡くなられた日の前日に母が逝きました。
1)3つのサヨナラ
いろいろあった1年の締めくくりにこのエントリーが書けることの幸せよ。
小田嶋隆先生なき後、ご尽力いただいた講房コトバコバトさま、講評いただいた市川真人先生に厚く御礼申し上げます