誰かの「おもしろい」はあなたの「おもしろい」ではない

キリスト教には「原罪」という概念があります。

エデンの園で、「食べてはならないリンゴの実を食べちゃった」ってことに由来します。

原罪感の有無で、クリスチャンと日本人(非クリスチャン)はモノの考え方が全然違う、ってのをどっかで読んだのですが、どう違うかにまでは言及されていなかったように記憶しています。

クリスチャンには生まれ持った罪悪感があり、日本人にはそれがない。

ないとするなら、人はいつ罪悪感を抱くのか。

抱かされるのか。

それはもちろん、「悪いのはお前だ」とジャッジされた時です。

極端な例え、泥棒をしても殺人をしても、責められることがなければ、裁く法がなければ、それを行なった自分を悪いものとは思わないでしょう。

誰かがあなたに吹き込んだのです、「あなたが悪い」と。

クリスチャンも同じです、キリスト者として生まれ育ったために、生育過程で「原罪」という概念がインプットされてしまうのです。

周囲にクリスチャンが皆無であれば、現在などという言葉とは無縁なことでしょう。

誰からあなたに「私が悪い」という考え方を植え付けたのです。

みなさんご存知のように(しらんか)私は「積読チャンネル」にド・ハマりしております。

先日もゲラゲラ笑いながら見ておりましたら、思わずスクショを取ってしまう場面となりましてね。

みんながおもしろいと言ってるものをおもしろがれなくても
あなたは何も悪くない

この場面に至るまでを、もう一度見直しました。

おもしろい、おもしろくないって、単なる個人の感覚のはずなのに、なぜか「みんながおもしろいと言ってるから同じようにおもしろがらなくてはならない。おもしろがれない自分が悪い」、そういう思考になりがちだというものでした。

おもしろくないものをおもしろくないと言って何が悪いんだ!

その類似品として

難しいものを難しいと言って何が悪いんだ!

おもしろいかどうかも、難しいかどうかも、「個人の感想」です。

つまり、「個人の感想」を表に出すことが許されていない。

出していいのは、「多数派に迎合できているものだけ」ということです。

多数派でなれけば、権威でもいいですね。

多数派から認められた意見でなければ、それを出してはいけないのですよ。

そして、もう一つ感じたことをそのまま出しにくくさせる要素があります。

おもしろい、おもしろくないとかは、単にその人の感想を言っているだけなのに、「おもしろくないからダメだ」というジャッジを載せてしまうことになるのではないかという恐れを伴うのです。

「ダメ」と言ってしまうことになるのではないかという恐れで、思ったことが言えなくなる。

これは日常でもよくあることですよね。

何か間違いや改善点があっても、それを伝えることができない。

こんなこと言ったら気を悪くするのでは
傷つけてしまうのでは

そう思ってしまうのは、自分がそんな思いをさせられたからです。

間違うなんてダメね!

間違っているという単なる事実の後に、「ダメね!」が加味されてしまっているのです。

そして「間違っている」という単に直せばいいだけのことよりも、「ダメ」がクローズアップされてしまい、改善点がおざなりにされるので同じ間違いを繰り返すということになってしまうのです。

注意を受け取りにくい人というのは、これまでジャッジの嵐を浴びまくってきたのでしょう、おいたわしや。

ということで

みんながおもしろいと言ってるものをおもしろがれなくても
あなたは何も悪くない

 

 

「悪い」と思わせてしまうのは、「みんなと同じでなくてはダメだ」というビリーフが植え付けられているから。

「おもしろくない」という単なる事実を伝えることに罪悪感を抱いてしまうのは、単なる事実の伝達が不要なジャッジを伴うことになると思わされてしまっているから。

植え付けられているから
思わされてしまっているから

植え付けられていなかったら?
思わされていなかったら?

みんながおもしろいと思うものと、あなたがおもしろいと思うもの、違っていてももちろん無問題です。

むしろ、周囲の方には新たな視点を提供することになるでしょう。

ご自分の感覚のままに、どんどんおもしろがってください。

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