
母の介護記録 残すべきか[読売新聞人生案内]
60代前半の無職女性。3年半前、最愛の母を自宅でみとりました。90歳でした。 母は脳卒中で高度機能障害となり、要介護5の寝たきりになりました。話すことも歩くこともできなくなり、食事が口から取れず、胃ろうに。訪問介護の皆さ
60代前半の無職女性。3年半前、最愛の母を自宅でみとりました。90歳でした。 母は脳卒中で高度機能障害となり、要介護5の寝たきりになりました。話すことも歩くこともできなくなり、食事が口から取れず、胃ろうに。訪問介護の皆さ
20代前半の男性。アルバイトをしながら、母と2人で暮らしています。 私は南米で生まれ育ち、4年ほど前に高校を卒業しました。在学中に父が重い病に倒れ、看病に追われるうちに学業への意欲を失い、進学はあきらめました。一昨年、父
壮絶な虐待を受けてこられた方(仮称ボタンさん)、ボタンさんは虐待の記憶に完璧にフタをしていました。コネクトロンにお越しくださるようになって数年間、彼女の口からそのことについて語られた事はありませんでした。 ある時、語られ
50代半ばの女性。3年ほど前から、「高齢者と若者をつなげる場」や「地域の子どもにお金の正しい使い方を知ってもらう場」を作ろうと活動してきました。高齢者は自身の豊かな経験を若者に、若者は現代の知識を高齢者に、それぞれ伝えら
40代前半の女性。独身です。 20代の頃、お笑い芸人になりたいという夢がありましたが、当時は、家族に相談できず、経済的な余裕がなくあきらめて就職しました。 芸能関係の仕事に興味はありましたが、チャレンジする勇気も、度胸も
60代後半の専業主婦。大学卒業後、6年間は事務職で働きましたが、結婚を機に退職して主婦となり、平凡に暮らしてきました。 頑張り屋の一人娘は共働きで、現在2人目の子どもの育休中です。わが子ながら偉いなと尊敬しています。 周
20代半ばの女性、念願の小学校教諭の職に就いて3年目です。子どもは、これから何にでもなれる可能性の塊です。子どもと関われる職業を選んだことは後悔していません。 大学在学中は学業に加え、留学、ボランティア、アルバイトなど、
40代後半、無職の女性。現在、就職活動中です。 結婚前は主に金融機関で働いていました。結婚を機に仕事を辞め、出産後は保育士として、子どもの成長に合わせて勤務条件を変えてパートで働いてきました。しかし脚の病気が悪化して続け
50代半ば、非常勤講師の女性。出産を機に退職し、ずっと働いていませんでしたが、数年勉強して資格を取りました。今は週2日、授業を担当しています。 仕事を始めて1年半以上ですが、授業の前日になると緊張と不安でおなかを下してし
20代後半の無職女性。人生の選択で、母の考えを気にする自分に嫌気が差します。 高校や大学受験では母や塾講師らの勧めた学校へ進みました。自分なりに就職活動をしましたが、結局、母が情報を見つけてきた企業に就職しました。 母の
21歳の女子大生です。人並みのことができず、自分は無能だと感じます。 話の意味が分からないことや、指示されても正確に行えないことがあります。要領も記憶力も悪く、大学の研究で周りに迷惑をかけたり、アルバイト先で注意されたり
50代前半、看護師の男性。今の病院に勤務して約30年になります。病院の援助を受けて看護学校に通い、学校卒業後4年で副主任に、その3年後に主任に昇進しました。昇進した時は「認められた」との思いでうれしかったのですが、以来1