↓これの続き
望むものは「自由」〜②やりたいことがわからないのはなぜか
仕事を選べないのはなぜか
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何をしたいかがわかっていないから
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何をしたいかわからないのは何故か?
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やりたいことをさせてもらえなかったから
お兄さまの持病の”せい”で、くまきちさんのおうちはお兄さまが最優先されていました。
正確には、お兄さまを最優先していたのはお母さまですが、おうちを仕切るお母さまの意向=一家の方向性となるのは致し方なしでしょう。
お母さまが持てるエネルギーを全てお兄さまに注ぐのはもちろんのこと、家族もそれを強いられます。
そう、くまきちさんは「ヤングケアラー」であることを強いられたのです。
自分で何かを選ぶということはできません、お兄さまのために選ばれたものと同じものを受け入れざるを得ないのです。
「自分」ではなく「ケアラー」という役割が自身の構成要素の多くを占めるようになってしまいます。

「何かを望んだって、どうせ許してもらえない」、このような諦めができあがっていきます。
「諦める」のはまだいいのですよ、「諦めるもの」がまだあるのですから。
諦めることの痛みも感じることができるでしょう。
この痛みに耐えかねるようになってしまうと、諦めてしまっていることがわからなくなります。
もちろん、何かを望むということも無くなります。
強いられた役割が、自分の全てだと思わざるを得なくなります。
他者から望まれる役割だけをやっていると、当然、周囲からの受けはよくなります。
自分の意向と他者の意向がぶつかることがないのですから。
そこに揉め事は発生しません、一見、うまくいっているように見えます。
波風が立っていない状態が当たり前になると、それが乱れることへの恐れが強くなります。
誰かとぶつかることのないように、さらに自分の意見を出さなくなります。
「言いたいことが言えない」状態です。
この状態が続くと、何が言いたいことだったのかわからなくなります。
ヤングケアラーの日々は、くまきちさんを「言いたいことが言えない」「何がしたいかわからない」、こんな状態に追い込んでしまっていたのでした。
就活のために振ったサイコロが、くまきちさんを「何がしたいかわからない」ことに向き合わせることとなったのです。
開いていただいたカード、ギフトカードとして「自由」がでました。

続きます。
ブログには書けなかったことを深掘りしております。
