人は見たくないものにフタをします。
見せたくないもの、見られたくないものにももちろん。
人が「見たくないもの/見せたくないもの」とはなんでしょう。
人には基本的に自尊感情があります。
どんなに自己否定の強い人でも、根っこには自分を尊ぶ思いがあります。いわば自分の屋台骨。

それが支えてくれているからこそ、生きていけるのです。
自分を尊ぶ思いと対立するもの、「自分は大切ではない」と思わせてしまう気持ち、それが「惨め」です。
「惨め」だなんて気持ちの存在、認め難いのではないでしょうか。
「惨め」とは、「自分が劣っていると感じている状態」だそうです。
劣っているとは、何かと比較しているということですね。
どうにも登れない山があるとしましょう。
頑張っても頑張ってもどうにも登れない。
悔しいなあ、登りたいなあ。
1人でいる時は「ちくしょー!」「がんばれ、俺!」と登れない悔しさと対峙し、己を鼓舞することになります。

が。
そこに他者がいるとどうなるか。
「あいつは登れているのに」
「俺はまだこんな低いところしか登れないのか」
他者とつい比べてしまい、それが優劣というジャッジになってしまいます。

「俺はあいつと比べて劣っている」、その気持ちを端的に表すのに「惨め」という看板が便利なようです。
自分の世界が広がるにつれ、比較対象となるものも増えます。
子どもの頃は自分ちが貧乏だなんて思ったことなかったなあ、という方。
学校に行き始め、よそのお家を知るにつれ、「自分の家は貧乏なのだ」と思い知らされることとなります。
誰かより劣っているという状態、その「惨め」に耐えられなくなると、上に登る努力をすることを放擲して、わざわざ自分を貶めることをする人がいます。
それを「卑屈」といいます。
1人で山に登っている時は、「まだまだ登る力がないなあ、どうすれば登れるようになるだろう」と考えられるものが、比較する他者がいて、その他者より自分が劣っているとなると「どうせ、〜と比べて僕は登れないから」と、「どうせ」というオプションが加えられます。
人が持っているものを自分は持っていない。
どうせ自分は劣っている。
この気持ちに気付かされるのは辛いもの。
こんな気持ちを持っていると誰かに気づかれるのは恥ずかしいもの。
見たくないので気持ちにフタをします。
見られたくないのでお面を被ったりします。

なかなか引っぺがすことができない気持ちのフタ、そのフタが隠しているものは「卑屈」であることが多いのです。だって、どうしても表に出せないものだから。
人が持っているものを自分が持っていないこと、それそのものは珍しいことではありません。
そんなことでいちいち卑屈になっていては身が持ちません。
他者はそれを持っているけど、自分がそれを有していないこと、そのことで必要以上に自分を責めてしまうもの。
それを持たない自分には価値がないのだ、と思わせてしまうもの。
それは「愛されていること」「必要とされること」です。
「愛される/必要とされる」、その体験が少ない人は、自分とは違って「愛されている人/必要とされている人」を見て、「自分には価値がないから愛されないのだ/必要とされないのだ」というジャッジをくだしてしまいがちです。
自分には価値がない

数ある呪いの中で、これは最強といえましょう。己の全てを否定してしまうものです。
「愛されなかった自分」とは、なんと惨めなことでしょう。
大切な自分を自分が望むように愛されなかったから、必要とされなかったから、自分にはその価値がないとジャッジしてしまう。
これが多くの人が持つ自己への「無価値感」の根底をなすものです。
続きます。
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