大阪・C子さんからのご相談です。
20代の女子大学生です。昔から「周りと違う自分」に憧れ、珍しい音楽や映画、知識に惹かれては、人と共有せず特別でいたいと思ってきました。でも最近、それが狭い世界での自己満足だったのではと気づき、恥ずかしさと苦しさを感じています。人に「センスがいい」と思われたい一方で、自分の意志より人の目を気にしている気もします。考え方や性格を変え、「好き」を自信を持って貫きたいです。評価されたいと思うのは悪いことでしょうか。
※読売新聞人生案内2026/08/25分を要約しています
あなたの罪悪感を消滅させる
ヨシヨシする人ヨシヨシスト
いまぷ です。
自信が欲しい、そう思われる方はモニター前に5000万人はいらっしゃることでしょう。
自信があれば〜ができる
そう、何かしたいのにできないことがあると人は欲するのです、自信を。
〜ができないのは自信がないからだ、自信があればできるのに。
あなたもそう思っていますよね、自分が〜できないのは自信がないせいだ、と。
そして、自信を得るための果てしない旅へと出かけるのです。
その旅には「自分探し」というタイトルがつけられることが多いですね。

ここではないどこかにきっと居るはず、自信に満ち満ちた自分が。
自信に満ちた自分だったら、やりたいことができるはず。
C子さんも「自信」を持てたら「好き」を貫けると期待していらっしゃるのですよね。
ということは、C子さんがやりたいことは「”好き”を貫くこと」で、「自信」は好きを貫くための手段なんです。
「”好き”を貫くこと」が本当の目的で、「自信」は手段でしかありません。
目的がはっきりしていれば、手段は他にいくつもあるのです、一つの手段にこだわる必要はないのです。
ではなぜC子さんは「好き」を貫くことができないのか。
そんなもん、原因はひとつしかありゃせんがな(どこの言葉?)。
C子さんが「好き」って言ったものを誰かに否定されたからにきまっとろうが(どこの言葉?)。
そんなことない、私はずっと反抗的で、自分の「好き」を貫いてきたわ!
そう「反抗」されるC子さんの姿が目に浮かぶようです。
「好き」を貫くこと、周囲を気にせず「好き」なことをする、そう言い換えてもいいでしょうか。
生まれた時から、「好き」なことをするのに「周囲を気にする」人などいません。
自分が「どや!」と表に出した自分の「好き」が、コテンパンにやられてしまったがために、「ああ、自分の”好き”って出しちゃいけないんだわ」となるのです。
C子さんが自分の「好き」を出すことに「反抗的」というレッテルを貼るのは、自分の「好き」を否定された痛みがあるからではないでしょうか。
どうせ私の「好き」は受け入れてもらえない
幼い頃から「反抗的」だったということは、反抗的になる前のさらに幼い時に、否定の痛みをインプットされたのでしょう。
記憶にもないほどの幼い頃に。
そしてC子さんは、自分の「好き」を出すために「反抗的」という鎧を着込まれたのです。

自分の「好き」を出すことに、鎧も反抗も、「貫く自信」も必要ありません。
「好き」はただ「好き」なだけでいいのです。
「好き」を貫くためにどうしても「自信」が必要とおっしゃるなら、「自信」のなんたるかを最後にお伝えしますね。
あなたは50メートルを10秒で走ることができますか
そう問われて
・自信がある
・自信がない
あなたはなんと答えられるでしょう。
自信があると答えられた方、それは「50メートルを10秒で走ることができる」と自分でわかっているのです。走ったことがある、もしくは、50メートルを11秒で走ったことがあるから、おそらく10秒で走れるだろう、とわかっているのです。
自信がないと答えられた方は、50メートルを10秒で走ったことがないのです。
自信があるとかないとか、それは、「それがあれば何かを可能にさせてくれる」という魔法のツールではなく、「何かをできると自分がわかっているかどうか」なのです。
「できる」とわかっていることを「自信がある」というのです。
C子さん、好きなものを好きとわかっているなら、好きであることに「自信がある」んですよ。

○○を好きなことに自信がある
ご自分をその想いでいっぱいにしてください。
誰になんて評価されるかなんて、考える余地がなくなりますよ。
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