みなさんご存知のように(知ってるよね!)、私ずーっと体調悪かったじゃないですか。
ありがたいことに、いろんな方からいろんな治療法をご提案いただきました。
以前から気になっていたとある治療院、そこを勧められたので、すがる思いで訪ねました。
初体験の施術、身体を微細に調整してもらえてるという感覚、そうか、「治す」ってバランスが崩れた身体を元に戻すことなんだな、と実感。
施術が終わって治療室を辞す際に、「身体がすくんでいますね、だから硬くなり縮こまって呼吸ができないんですよ」、そう声をかけられました。
身体が硬いとはこれまでにも散々言われてきましたが、「竦む(すくむ)」との指摘は初めて。
立ちすくんで動けなくなっている自分の姿がイメージされ、その瞬間、胸骨のあたりに鉄の板が差し込まれたような苦しさにみまわれました。
「戦うか、逃げるか」反応というものをご存知でしょうか。
危機的状況になった場合、その状況を回避するために「戦うか」もしくは「逃げるか」、どちらかを選択するというものです。
しかし、選択肢は2つではなく、もうひとつ、「身動きを止める」というものがあります。
これは「擬死」が代表的なものですが、「あえて動かない」という自分の積極的な選択です。
どれも選択できない状態、それが「立ちすくむ」ではないかと思いました。
進むことも戻ることも、そして止まることも選択できず、思考停止状態でただ立ちすくむ。
そうか、私は何十年もずっと立ちすくんでいるばかりだったのかもしれない、そんな思いに至りました。
今日は母の命日です。
逝ったのが何年前かも憶えていない私は薄情ものですか、そうですか。
手帳を見なければ、命日だということも思い出さなかったかも。
母を偲ばせるものは何ひとつありません(探したらなんか残ってるかな?)。
この薄情さに、「恨んでるのか?」と思われるかもしれませんね。
恨んでなんていないんですよー、微塵も。
ただ、ただ、解放されたことにほっとしたのです。
母が逝ったと病院から連絡を受け、枕元にたどり着いた際、「これでもう何も言われなくて済む」と安堵しました。
しかし、逝ったと分かってはいても、そばにいるのは怖かったです。
もしも、また起き上がったらどうしよう。
また何か言われたらどうしよう。
同じ部屋にいるのは耐えられず、外に出ました。
今日も、「命日だったよな」と思い出して真っ先に頭に浮かんだのは、「もう、何も言われなくていいんだな」でした。
その瞬間、胸のつかえが取れた感がありました。
ああ、まだ怖さが残ってるんだな。
ずっと立ちすくんでいるばかりだったから、動き方がわかんないんです。
さて今日のテキストは、私と同じように「親に全面的な親愛の情を向けることができないことに罪悪感を抱いている方」にお届けしております。
親不孝もんだって、自分のこと責めちゃうよね
みんなと同じように親を大事にできたらよかったよね
立ちすくんでいるのはしんどかったよね
丶(・ω・`) ヨシヨシ
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